ALOHA ケン・ノブヨシです。
今日のオーダーはこちら。
- つまみ:モチコチキン(cooking)
- ビール:コナブリューイング「キャスタウェイ」
- コラム:ハワイの王女と日本の王との縁談話
- 相伴本:『カラカウア王のニッポン仰天旅行記』
それでは、ゆっくりとハワイアンタイムをおすごしください。
モチコチキン(cooking)
モチコチキンはガーリックシュリンプと並んでハワイのローカル料理として人気のメニュー。
いわゆる「からあげ」であるが、特徴は下味をつけた鶏肉にもち粉を使用する点である。
我が家のレシピはニンニク、ショウガ、醤油、酒、砂糖。これにもち粉をまぶして揚げれば完成。
コナブリューイング「キャスタウェイ」
モチコチキンに合わせるビールはコナブリューイングカンパニーの「キャスタウェイ」をチョイス。
- スタイル:IPA
- ABV(度数):ABV6.0%
- IBU(苦味値):50
(数値はKONA BREWING HPより)
IPA値(苦味値)が高いので、味の濃いモチコチキンに合うのではないかと思いチョイスしてみた。
私は苦味が強いビールは苦手なので、苦手な私でも楽しめるかも確認してみたい。
いただきます
それでは食材に感謝しつつ、いただきます。
揚げたてのモチコチキンにかぶりつく。うまい…、うますぎる。外側はカリカリ中はジューシー。唐揚げと比べ、下味に砂糖を多めにいれるのでコクのある甘さが特徴だ。この甘さに南国を感じさせる。たまらなく美味しい。
ビールのキャスタウェイも試してみる。マンゴーとパッションフルーツを少し加えているとのことだが、たしかに香りはほのかにする。しかしホップの苦味が強く、それらフルーツ要素の味はわからなかった。
とはいえチョイスとしては正解で、味の濃い揚げ物であるモチコチキンには合う。IPAが好きな方はこの組み合わせはおすすめできる。
しかし私自身としては苦めのビールが苦手なので、ちびちび飲みながらチキンをつまむという食べ方になった。それはそれで、ゆっくり楽しめるから良かった。
CASTAWAYのラベルのイメージはオーシャンズセブンに数えられるオアフ島とモロカイの間のカイウィ海峡。
別名Channel of Bones(遺骨の海峡)と呼ばれる荒々しい海のごとく、私にとっては乗り越えることが困難なビールではあったが、いつか慣れて楽しめるようになればいいなと思う。
一夜一冊:本日の本『カラカウア王のニッポン仰天旅行記』
~今回は先に本の紹介、そしてハワイコラムと続きます~
今回紹介するのは『カラカウア王のニッポン仰天旅行記』。
1881年(明治14年)ハワイ王国であったカラカウア王の世界一周旅行記の翻訳本。特に日本とアジア諸国訪問部分を翻訳している。
荒俣宏(樋口あやこ共訳)による文章なので軽快で大変に読みやすくなっている。
原作の作者は旅行の随員である英国人ウィリアム・N・アームストロングである。
この人の人物・情景描写が非常に面白く、カラカウア王を始め各国要人、当時の各国の事情、宮廷事情など生き生きと書かれている。
例えば、日本を訪れた際の有栖川宮邸での午餐会での描写。少々長くなるが引用する。
カラカウア王は、「英語がお上手ですね」と日本人たちがしきりに感心するので、いい気分なっている。しかもかれらは、王がおおげさな形容詞を使ったりするといっそう感心するのである。(中略)
だいたい、しらふの時は英語を話したがらないのに、酔っぱらうとむやみに英語をしゃべるというのはポロネシア人の変な癖である。これはカラカウア王一人だけではない。先王のルナリロ王も、酒が入るとぴたりとポリネシア語をしゃべらなくなり、家族にさえ英語で話しかけた。(中略)
ルナリロ王がむやみに難解でおおげさな英語をつかっていたのを、カラカウア王もよく覚えている。アルコールがはいると、その時の記憶がせきをきってよみがえってくるのだ。
(本書146~147ページ)
王の気質が大変よくわかる描写で、思わず微笑んでしまう。
さらにこの午餐会の後、場所を貴族クラブに移し「日本式の晩餐会」を体験する。「アトラクションもあるらしい」とワクワクする一行の前に現れたのはゲイシャガール。
それも彼女達はただのゲイシャガールではない。日本中に名をとどろかせる「スター」ばかりを集めたのだ。文中の表現を借りると「明治の世になって以来、最高に金のかかった晩餐会(p.149)」だったそうだ。
ゲイシャガールのショーを見た感想は以下の通り。これも面白い。
楽器は「サミセン」だが、どうも貧弱で単調な音で、われわれには良さがわからない。しかし日本人はみな、たいへんよろこんで耳を傾けていた。踊りのうまい、美しいゲイシャたちも、大感激で聞いていた。4人の歌い手は、日本でもっとも芸達者な名人ぞろいだそうで、かれらがいっしょに演奏するなどというのは、前代未聞のことだとか。歌はわからなかったが、踊りのほうはたいへん楽しめた。ハワイのダンスに似ているが、もっと上品だ。(以下、踊りの感想がつづく)
(本書149~150ページ)
このように日本では国を挙げての大歓迎を受け、陽気な王の珍道中が繰り広げられる。
ちなみにこの日本滞在中に驚天動地の出来事が起きる。それは後ほどのハワイコラムで。
この後、日本を出発した一行は中国、シャム、シンガポールとアジア各国を歴訪し、李鴻章、ラーマ5世、スリ・アブ・バカールなど各国要人と面会をする。
本書に詳しく書かれているのはここまでで、この後のインド・エジプト・ヨーロッパに関してはあらましの紹介程度となっている。
世界を見分し旅が終わりをむかえるとき、王に対し英国人作者は尋ねる。
王に、「この旅でどんなことがわかりましたか」と尋ねると、「わが臣民がどの国の国民よりも幸福で、わが国がどの国よりも良いということがわかった。」という答え。ハワイ人は衣食にめぐまれ、音楽や娯楽をたのしみ、のんきにその日ぐらしをしているからだ。わたしが「しかしポリネシア人はいつか滅びてしまうでしょう」というと、王曰く・・・
(本書340ページ)
この質問に対する王の答えは、実際に本書で王とともに世界一周をした後に読んでほしい。
【ハワイコラム】ハワイの王女と日本の王とのロマンス
日本を訪れ大歓迎を受けたカラカウア王であったが、この訪問中に大変なことを言い出したのである。
ことの発端はの日本滞在中、王が随員に内緒でいなくなってしまったことから始まる。
しばらくして帰ってきた王を問い詰めると、なんと天皇に個人的に面会を申し込んだとのこと。
面会の内容はなんとハワイ王家と日本の皇室の縁組のお願いであった。
これが有名な山階宮定麿王とカイウラニ王女との縁談話である。
ここでこの両者の簡単な紹介する。
海軍軍人として日露戦争では巡洋艦「千歳」副長、同「千代田」艦長として参戦。大正7年、海軍大将。
カラカウア王の妹リケリケ王女の娘。生後すぐにカラカウア家へ養女に出された。のちに伯母のリリウオカラニから王位継承権第1位に指名される。美しく聡明で臣民からの人気は高かった。
この縁談時、定麿王15歳、カイウラニ王女5歳。
カラカウア王がなぜ定麿王を知っていたのかというと、海軍兵学校に在学中の定麿王が滞在中の王の釣りの相手などを務めて、カラカウア王に大変気に入られたそうだ。
しかしいくら気に入ったとはいえ、なぜ日本と縁談を?
ハワイはこの時、アメリカに有利な内容の米布互恵条約の有効期限が近づきつつあり、更新時にはさらにハワイ王国にとって厳しい内容を突き付けられると予想されていたからだ(事実そうなる)。
そのような背景もあって、日本とのつながりを深めてアメリカと対抗しようと王は思ったようだ。
ただアメリカに対抗といってもこのとき明治14年。日本が欧米列強と肩を並べるのはまだずっと先の話。日本は欧米各国との不平等条約に頭を悩ましているアジアの新興国に過ぎない時期である。
しかし王はとにかくそう考え、天皇に縁談を持ち掛けたのだ。明治天皇は上機嫌でお聞きになったそうだが返事は保留した。
その後、すぐに御前会議を開き、なんと一時はこの縁談に賛成意見が多かったそうだ。しかしやはり天皇は熟慮の結果、断ることにした。
断るに至った主な理由を3つ挙げると、第一にアメリカとの関係悪化を懸念したこと。第二に日本はまだ国力増加の時期であり、また不平等条約撤廃に動く日本にそこまでの外交的余力がないこと。第三に皇室に国際結婚の前例がないことが考えられる。
明治天皇はこの王の単独行動に対して、翌年にわざわざ内密に勅使をハワイに派遣し、正式に天皇を親書によって縁談の断りをしたそうである。カラカウア王に対しての明治天皇の御心が感じられる。
さて、この幼き王女と若き王のその後であるが、お二人はそれぞれ違う場所でハワイのために戦うことになる。
この縁談話の12年後の1893年、カラカウア王の後を継いだリリウオカラニ女王は米国との不平等条約を撤廃する動きをした。その動きを封じようとアメリカ側がクーデターを起こし「臨時政府」を樹立してしまう(ハワイ革命)。
これに対しハワイ王国独立を支持する日本は、邦人保護を理由に東郷平八郎率いる巡洋艦浪速(他2隻)を派遣し、ホノルル軍港に入りアメリカをけん制した。
この日本の行動に女王支持のハワイアンは涙を流して歓喜したという。
そしてこの浪速に乗組員として乗っていたのが、かつての山階宮定麿王(明治19年依仁と改名)であった。
幻の婚約者の地をこのような形で訪れようとは。かつてのカラカウア王との交流もお心に響いたのではないだろうか。
一方カイウラニ王女はこのとき英国留学中であった。クーデーターを聞くと渡米し、その不当性を訴えるべくクリーブランド米大統領と面談、徹底調査する約束を取り付けるなどハワイのために戦っていた。
しかし抵抗むなしく1898年、ハワイは米国に併合されアメリカの準州となる。
そして翌年の1899年、23歳の若さでカイウラニ王女はハワイで死去される。
クヒオ通りの交差点にプリンセスカイウラニの像が立っている。
私はよくこの前を通るのだが、その際にはいつも陽気な王と聡明な王女のこと思い出す。
そして王女に敬意を表し、一礼して通るようにしている。
太平洋で隔たれた日本とハワイ。距離はあれど繋がり深い”両国”のことを思いを馳せ、これからも良い関係が続くことを心から祈っている。
それではハワイはそろそろいい時間となりました。
みなさま良い休日を。
【参考文献:矢口祐人『ハワイの歴史と文化』中公新書、中嶋弓子『ハワイ・さまよえる楽園』東京書籍】